NBA,バスケットボールミュージアムLayupshot

Contact us 免責事項

© 2012-2017 Layupshot.

Owner. Tadahiro Hakamata

Photo. Kentaro Sawaguchi

Design. PLANPOT DESIGN WORKS

BLOG

HOME / ABOUT / BLOG / 800 of NBA Game Worn Jerseys, Story Behind The Origin of Layupshot.com (1)

800 of NBA Game Worn Jerseys, Story Behind The Origin of Layupshot.com (1)

1.コレクションの始まりとなるNBA All Star Game Jersey

はじめましてNBAバスケミュージアム”Layupshot” (www.layupshot.com)代表のMr. Hakamataと申します。

NBA選手が実際に着たジャージーを日本一集めてしまい、自分の人生がNBAに侵されてしまったダイハード・ファンの一人であります。

およそ30年来のNBAファンとして私の生活の中には常にNBAが存在しており、どっぷりとのめり込んでしまっております。結果、800着のジャージーやNBA選手が着用したシューズ、サイン入りのボール等を集め、ついにはこれらのコレクションの数々を保管するための建物まで建てるに至り、ミュージアムとして開館し世界で一番美しいミュージアムを目指すと共に身近に感じる事が出来るようWebを通じてパソコンより、皆様が気軽に来館できるようにLayupshot.comをスタートさせました。

この異常なまでの(自分ではそうは感じませんが)収集癖は7年前に一時中断したスニーカーに始まりました。

マイケル・ジョーダンをこよなく愛した私はAir Jordan 1~14までの全てのモデルを23足ずつ購入したり、小学生の時に見たスニーカーが飾られた透明なトンネルに憧れて、とにかく格好いいと思ったものは買いまくっていました。その結果足数2000足をはるかに超えるシューズの箱は、家の中の6畳2部屋、8畳1部屋を占領、天井まで埋め尽くしてしまった程で家族からは冷たい視線を常に浴びていました。

今回紹介したいのは、私が初めてアメリカまで足を運び手に入れたもので、膨大なコレクションのきっかけとなったジャージー(ユニフォーム)についてなのです。

それはユタ・ジャズの本拠地ソルトレイクシティーのデルタセンターで行われた1993NBAオールスターゲームでウエスタンの代表としてLAクリッパーズから選出された#5ダニー・マニングが実際のゲームで着用したジャージーです。

ダニー・マニングはご存知の方も多いと思いますがNCAAでも有名なKansas大出身です。特に男子バスケットボールの名門校として知られるこの大学はバスケットボールを創案したDr.ジェームズ・ネイスミスが初代HCを務めた事でも知られる歴史と伝統のある大学で、3度の全米制覇を成し遂げている強豪校です。Kansas Jayhawksのチーム名は鳥のキャラクターとマスコットで全米で知られ、また数多くのNBA選手を輩出しています。

マニングは当時エースとして活躍し1988年には名将ラリー・ブラウンが率いるチームの中心選手として見事NCAAチャンピオン、全米制覇を成し遂げます。彼の父親は元NBA選手のエド・マニングであり、TVの解説で「ダニーの幼少時代は父親の練習を目の前で見たり、NBAのゲームをコートサイドからよく見ていた」と聞いた事を今でも忘れられません。

私は大学時代からスター選手だったダニーの名前は直ぐに覚え、ビデオで彼のプレイをよく見ていました。なで肩ではあるが背も高くその美しいシュートに感動したものです。1988年のNCAAトーナメントのオクラホマとの決勝戦では31得点、18リバウンド、5スティール、2ブロックを記録する大活躍で、圧倒的不利と見られていたジェイホークスを奇跡的な勝利へと導いたのです。

デュークルーイヴィルノースカロライナシラキューズなど、強豪チームの名前を必死に覚えたり、チーム中心選手がNBAでどんな活躍をするのかが興味津々だったものです。そんな状況は今でも変わりません。

ダニー・マニングは1988 NBA ドラフトの全体第1位で指名を受けLA クリッパーズに入団したのですから注目度もかなりのものでした。しかし、チームの勝率をすぐさまアップさせるまでに至らず低迷していました。しばらく苦戦の日々が続き3シーズンが過ぎ、4シーズン目となる1991-92 シーズン途中の47試合が過ぎたところで大学時代のラリー・ブラウンがヘッドコーチとしてチームに迎え入れられたのです。そうするとクリッパーズはNBAプレイオフにいきなり進出、またダニーもチームの中心選手として頭角を現し始めるのです。

ちょうどその頃NBAでは凄い事が起きていました。NBAオールスターは毎年シーズン途中に行われる東西に分かれての、まさしくスタープレイヤーたちがファン、コーチ陣の投票によって選出される夢のゲームです。そのゲームに選出されるプレイヤーは非常に有名なことは言うまでもありません。NBAファイナルズに進出しNBAチャンピオンに輝く事は非常に難しいことですが、このNBA オールスターに出場する事もほんの一握りのプレイヤーだけなのです。

91-92シーズンが開幕して間もなくLAレイカーズのスーパースター、NBAを代表する英雄#32 アーヴィン・マジック・ジョンソンがHIV感染によって突如引退を発表しました。しかしその時すでに始まっていたオールスターのファン投票によってフロリダ州オーランドで行われる1992 NBA オールスターゲームに選出される事になりました。

現在のオールスターゲームでは選手の背番号はそれぞれのチームで付けているものをそのままつけていますが、当時は同じ背番号を付けることは禁じられており、チームで慣れ親しんだ背番号をこの時ばかりはNBAの先輩プレイヤーに譲ることもしばしばありました。このオールスターでの臨時の背番号もNBAファンにとってはたまらなく楽しいものでした。

そんななかイースタンの代表として選出された#34チャールズ・バークリーがマジック・ジョンソンのこの一連の悲劇に敬意を表して、何とマジックの背番号#32を付けてゲームに出場したのです。この粋な計らいに正直私は何と素晴らしいことだろうと感じいったものです。このたった1着の貴重な思いが込められたジャージーに物凄く憧れたものでした。チャールズ・バークリーはこの1991-92 シーズン中にもフィラデルフィア76ersで本来の背番号#34から背番号ビリー・カニングハムの永久欠番の#32に変更してプレイしていました。もちろん本人と、チームに了解を得ていましたが。

オールスターの試合の方はマジックの引退セレモニーのようなこれまた素晴らしいゲームで、大活躍のマジック・ジョンソンがMVPを獲得し、なかでもゲーム残り4分程の内容は感動的で歴代NBAオールスターゲームの中でも私のお気に入りの上位に入っている、充実のゲームのひとつなのです。

その感動は1992年のバルセロナオリンピックまで続きました。マジックの出場でだれもが喜び絶賛したドリームチームの活躍は凄まじいものでした。プレイはもちろんのこと選手達が身に着けていたものにまで全世界が夢中になったものです。

アメリカ代表の背番号#4から#15までの選手達を暗記するのはほんの序の口。私はその時に販売されたオリンピックモデルは全て購入し、またシューズのなかでAir Jordan 7に刻まれたナンバー9を感激しながら何度も見たものです。

その後更にNBAに夢中になったことは言うまでもありません。迎えた1993 NBAオールスターゲームでまたも面白い計らいがありました。

それはオリンピック後、チャールズ・バークリーフィラデルフィア76ersよりフェニックス・サンズへと移籍しました。当時話題となったビッグトレードと彼の人気が凄いものであったことはご存知の方も多いと思います。バークリーは大親友であったマイケル・ジョーダンに対して敬意を表してイースタンではチームメイトでしたが、初めてウエスタンの対戦相手としてジョーダンの背番号#23を付けてプレイしたのですが、このジャージーの思い出は今でも忘れられません。このゲームは地元ユタ・ジャズカール・マローンジョン・ストックトンのコンビがMVPを同時受賞しています。

そしてこの後に行われた1993 NBA ファイナルズは非常に見応えのあるシリーズとなりシーズン MVPには#34チャールズ・バークリーがそしてシカゴ・ブルズがThree-Peatを成し遂げた感動のシーズンでした。